6泊8日で、サマルカンド、ブハラ、ヒヴァ、タシケントを巡る個人旅行の4日目は、終日ブハラ観光となります。午前中にイスマイール・サーマーニー廟やボロハウズ モスクなどを巡った後、カラーン・ミナレットやカラーン・モスクに行きます。2025年10月の旅です。
20mも高い位置に
4日目 10:15 ボロハウズ モスクを見た後、向かいにあるアルク城に到着。
敷地の西側に入り口があります。スロープを上がって入ったところにチケットの窓口が設けられています。1人60,000スムでクレジットカードは使えます。

城の内部です。広さは3.96ヘクタール。だだっ広い凸凹の砂地が広がる光景は、サマルカンドの中心部にあるアフラシアブの丘と似ています。チンギス・ハンの襲来によって破壊された後、再興してブハラ・ハン国の居城として栄えたとのこと。そして、1920年、ソビエト赤軍に爆撃されるなどして、このように荒れ果てました。

城外と比べて、15~20mくらい高いところに地面があります。そのため、何もない荒れ地の先に、周囲の建物の屋根や尖塔の先端が見えます。実に異質な光景です。

アフラシアブの丘と違う点もあります。それは、敷地内に建物部分も残っていることです。

玉座などが往時の形で残されています。

ブハラ・ハン国の時代の資料展示もあります。

城内から見た城壁。場所によって高さは変わるのですが、こちらの壁は20m前後はあるでしょう。

目線をそれほど上げることなく、隣のブハラタワーの展望台が見えます。そのくらい城内は高い位置にあるということです。

外に出ました。城壁の迫力はなかなかのものです。

ラクダがいました。乗って歩き回るサービスでもやっているのでしょうか。

われわれが見学に要した時間は、30分ほどでした。内部を軽く歩く程度なら、このくらいの時間があれば十分かと思います。ただ、展示物をじっくり見たいという方や、荒れた砂地の端から端まで行ってみたいという方は、1時間以上をみておいた方がよいでしょう。
この城が特徴的なのは、何と言っても、内部に何もない広大な砂地が残されていることです。日本にしろヨーロッパにしろ、城というと基本的には建物を指し、城が残っていない場合は「城址」や「城跡」と表現されます。その考え方で言うと、アルク城は砂地の存在感が、現存する建築物よりも圧倒的に強いので、やはり「城跡」と言う方が近い気がします。
その遺構が周囲より15~20mも高い位置にあるというのも、とても珍しい気がします。この地を治めた君主は、周囲からの攻撃に備えて防御力を高めるために、盛り土をして城と街を築いたのだと思われます。
平坦なブハラの微高地に
ブハラの街は、ザラフシャン川によって形作られた、なだらかな扇状地の扇端に当たるようなところに位置します。とても平坦な地形で、街の東側に急峻な山脈が迫るサマルカンドやタシケントと違って、360°どこからでも敵国に攻められてしまうような、防衛戦略的には厳しい環境です。
一方で、面白い点もあります。下の画像は、標高を表したマップです。ポコッと盛り上がった微高地があることが分かります(マップ上の「Buxoro」と書かれている赤い部分です)。アルク城やラビハウズなどの旧市街は、その微高地に築かれているのです。

ブハラ旧市街は、シルクロードを行き交ったソグド人が基礎を築いたとされています。なぜ旧市街があるこの地だけ「腫れ物」ができたかのように高くなっているのかは分かりませんが、ソグド人たちはこの地形を良いと評価し、意図してこの地に街を築いたはずです。
そして、そこにさらに盛り土をした城(=アルク城)を築くと、どうなるでしょう。遮るものがない平原にあって、きっと遠くまでよく見えたのではないでしょうか。この高台から、敵の襲来などに目を光らせていたはずです。
シャイバーニー朝がサマルカンドからブハラに遷都したのは1500年代の初頭。その後、ブハラ・ハン国と呼ばれるようになって1920年にソビエト赤軍の介入によって滅亡するまでの400年もの間、防御に適しているとは言えない地で王朝をつないできた事実は、重いものがあります。少しだけ盛り上がった土地と、そこに盛り土をした居城が、国を守るうえで貢献したのかもしれない。そんな想像を巡らせてみるのも、また面白いのではないでしょうか。
カラーン・モスクではスカーフを
では次にカラーン・モスクに行きます。アルク城の入り口から600mほどの距離です。
10:50 カラーン・モスクに到着。ピシュターク(外側の門構え)もイーワーン(ピシュタークの内側にある空間)も、石材の茶色が恐らく意図的に残されており、青色のタイルとの間で、バランスのいいコントラストを生んでいます。

カラーン・モスクが建てられたのは1127年とされています。その後、チンギス・ハンによって破壊されましたが、1514年に再建されて、現在のような形になりました。
こちらのモスクは割と厳格で、観光客であっても女性が入場する際は、スカーフの着用を求められます。持っていない場合は、入り口で無料で貸してくれます。

こちらはモスクのピシュタークです。敷地の入り口にあるピシュタークと違って、イーワーンまで含めて全面に装飾が施されています。

こちらがミフラーブ(メッカの方向を示す壁)です。建物の外観に比べて、祈りの場はそれほど広くありません。

女性がスカーフを着用している場は、やはり厳かな空気を感じて、背筋が少し伸びます。ここに要した時間は20分ほどでした。
カラーン・モスクの向かいには、ミル・アラブ・マドラサがあります。こちらは入場できません。ピシュタークには足場が組まれ、修復作業の準備が進められていました。

チンギス・ハンも破壊をためらう美しさ?
カラーン・モスクとセットでカラーン・ミナレットを見ます。

高さは約46m。カラーン・モスクができた6年後の1127年に完成しています。1220年にモンゴル帝国の侵攻で街は破壊されましたが、カラーン・ミナレットに関しては、その美しさに感動したチンギス・ハンが壊さないように指示したという伝承があります。

青空に映えます。

ミナレットは大きいだけではなく、装飾も実に細かいです。1000年近く前に、よくぞ完成させたものだと感心します。

向かい合うウルグベク・マドラサとアブドゥルアジズ・ハン・マドラサ
カラーン・モスクを出て、ウルグベク・マドラサとアブドゥルアジズ・ハン・マドラサに向かいます。カラーン・モスクから250mほどです。両マドラサはピシュタークが、道を挟んで向かい合うように立地しています。
11:25 ウルグベク・マドラサに到着。サマルカンドのレギスタン広場で最古のウルグベク・マドラサは1420年の完成で、こちらは1417年。ブハラの方がわずかに古いです。ウルグベクがティムール帝国の知の二大拠点とするべく、同時期に整備したと言われています。

中庭です。タイルが剥落して、やや傷んでいます。修復作業が待たれるところかと思います。入場は無料です。

中庭では例のごとく、いろいろな土産物を売っています。

三毛の子猫がぐっすり寝ていました。触っても起きません。

次に、アブドゥルアジズ・ハン・マドラサに入ります。完成は、さきほどのウルグベク・マドラサから200年以上も後の1652年です。

ウルグベク・マドラサと時代が違うだけあって、作りが随分と違います。まず目につくのは、壁面に刻まれた蜂の巣のような多くのくぼみです。これはイスラム建築特有の「ムカルナス」という装飾です。10世紀ごろにイランで生まれたそうです。ウズベキスタンで多く見られるようになるのは、16世紀以降のようです。

また使われている色は、青系で統一されたウルグベク・マドラサと違って、こちらは赤や黄色などの暖色系もあり、色彩が豊かです。どちらが芸術的に美しいかはさておいて、時代の違いは確かに感じます。
中庭です。こちらはタイル装飾そのものが見られません。元からなかったのか、それとも劣化してはがされたのか、どちらなのでしょう。

キジ白の猫がいました。カメラを構えたら、こちらに駆け寄ってきました。とても甘え上手な猫でした。

展示室の中には、黒猫がいました。こちらも触らせてくれる人懐っこい猫でした。

二つのマドラサを軽く見るのにかかった時間は、20分ほどでした。アブドゥルアジズ・ハン・マドラサのピシュタークは、他のマドラサのピシュタークと全く違っているので、これは見ておくべきでしょう。
午前中の観光はここまでで、ラビハウズに昼食に行きます。




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