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Mr.Children ウスバカゲロウ 文学的で哲学的な美しき歌詞 秘められた意味は? 子から大人への成長 あまりにも特異な生態 そこに希望のメッセージが見えた

30年ぶり2度目の衝撃

 Mr.Childrenが2026年3月25日にリリースしたアルバム「産声」。その4曲目に「ウスバカゲロウ」という異色の楽曲が収録されている。

 このような作品を前にすると、どうしたって分析してみたくなる。

 だって、ウスバカゲロウだよ、ウスバカゲロウ。

 誰もが知るような生き物ではないし、なんとなくだけど薄気味悪い印象があるし、「バカ」とか「カゲ」を含んでいて単語としての響きも良くはないし。

 そんなウスバカゲロウが、ミスチルの楽曲になってしまった。

 しかしながら、これがまた、歌詞もメロディーも美しくて、とんでもなく素晴らしいのだ。

 この「生き物系ソング」の衝撃は、アルバム「深海」に収録されている「シーラカンス」以来ではないか。「深海」のリリースが1996年6月だから、つまり30年ぶり2度目になる。それくらい長く「珍種」に遭遇していなかったのだから、そりゃファンが驚がくしてしまうのも無理はない。

 そんな風変わりな際物が出てきたからには、ただでは終わらないことは想像がつくだろう。描き出される世界は、どこまでも文学的で意味深長で、同時に胸がぎゅっと締め付けられるような儚さに満ちている。

 となると、歌詞を見ていない人であっても疑問が浮かぶだろう。

 なぜ、ウスバカゲロウなのか。

 なぜ、ウスバカゲロウでなければならなかったのか。

 シンプルなその問いについて、掘り下げてみたい。

トンボに似ているけれども

 まず、ウスバカゲロウの基本的な生態について語るところから始めよう。

 ウスバカゲロウは、簡単に言えば、見た目がトンボに似た昆虫である。羽が4枚あって、足が6本あって、棒のように細長い胴体を持っている。

 ただ、トンボが優れた飛行能力を持っているのに対して、ウスバカゲロウは飛翔とはとても呼べないような飛び方しかできない。ウスバは「薄羽」、カゲロウは「陽炎」で、まさに陽炎がゆらめくように不自由そうに宙を漂うことから、その名が付いたという説があるほどだ。

 加えて、生物学的分類で言うと、ウスバカゲロウが「昆虫綱-アミメカゲロウ目」に属するのに対して、トンボは「昆虫綱-トンボ目」になる。これはもう、全く別の生き物と言っていい。分かりやすく一例を挙げると、ヒト(哺乳綱-霊長目)とネコ(哺乳綱-食肉目)くらい違う。

アリジゴクが鍵に

 こうして蘊蓄を並べておいてどうかと思うが、実を言うと、ウスバカゲロウよりも先に説明しなければならない存在が他にいる。

 アリジゴクだ。

 あのアリジゴク。

 またまたイメージに難がありそうな生き物が出てきてしまった。しかしながら、ここは避けては通れない肝なのだ。昆虫嫌いの方もいらっしゃるかもしれないが、うんざりせずに、お付き合い願いたい。

 アリジゴクは、ウスバカゲロウの幼虫である。その認知度は、おそらくウスバカゲロウより高いはずだ。砂地に掘られたすり鉢状の巣(まさにジゴク)を実際に見たことがあるという人も多くいるだろう。

 そのアリジゴクになぜ注目しなければならないかというと、アリジゴクの生態が、歌詞の鍵を握っているからだ。

後ろ向きにしか進めない

 アリジゴクは、失礼を承知で言ってしまうと、穴を掘って「待つだけ」の生き物だ。狩りのために外に出ることはない。よく言えば効率的だが、悪く言うと光の乏しい世界で、受け身で生きている。

 そして、アリジゴクには際立った身体的特徴がある。後ろにしか進むことができないのだ。前には行けない。後ろだけ。足の構造や全身に生えている毛の向きなどに由来する。そんな生き物が世の中に存在するのかと思ってしまうが、実際にいるのだ。砂の巣穴に深く、素早く潜ることに特化した結果、そのように進化していったのだという。

人間に置き換えてみると

 桜井さんはきっと、アリジゴクのこうした特異な実態に着目したはずだ。

 そして、きっとこう思ったはずだ。

 これは、人間に置き換えられる。

 どんな人間か。

 世の中とうまく折り合いを付けられていない若者だ。

 穴に潜ったままで、後ろ向きにしか進めないアリジゴクの生き方は、社会と積極的に関わることが苦手な青年の姿とそのまま重なり合う。

 これは、歌にできる。

 そして、歌になった。

「サングラス」をなくした理由

 さて、ではここからは、実際の歌詞を見てみよう。

 歌い出しにいきなり重要なヒントがある。

 「大事にしてたサングラスを失くして 見つかんなくて」

 なぜ「サングラス」を「大事にしてた」のか。そして、なぜ「失くし」てしまったのか。

 サングラスは通常、日光から目を守るためにかける。それを大事にしていたのだとしたら、それはつまり、光=外の世界=実社会を直視することを、「僕」が避けてきたのではないかと考えられる。アリジゴクよろしく、世間との関係が希薄な場所にいることに、居心地の良さを感じるような人間だったということだろう。

 それなのに、なぜサングラスを「失くし」てしまったのだろうか。

 答えは一つだ。「僕」は少年期(=アリジゴク)から、大人(=ウスバカゲロウ)にちょうど移り変わる時期にあったということだ。否応なく社会と向き合わなければならなくなった「僕」の境遇が、サングラスを失うというメタファーに置き換えられている。

特別な「夏の記憶」

 アリジゴクの生態について、もう一つ付け加えておくことがある。アリジゴクは幼虫として1~3年を過ごし、ウスバカゲロウになる前に、いったんさなぎになる。その期間は3週間から1ヵ月ほど。その後、夏から初秋の夜間に羽化するのだという。

 1番のAメロを見てみよう。歌詞に「君といた夏の記憶が また少し萎んだ」とある。

 なぜ夏なのか。

 それは、アリジゴクがウスバカゲロウへと姿を変える特別な季節だからだ。

 そして、その夏の記憶が薄れているのだという。無理はない。誰だって幼少期にあった出来事のすべてを覚えていることなどできはしない。ここではまさに、楽曲の主人公である「僕」が、子どもから大人への階段を上りきろうとしている局面にあることが表されている。

「寂しさ」とともに繭に

 続いて1番のサビにある「真夜中に膨らんだ幾つもの後悔」について考えてみる。

 「後悔」とは何だろう。これは、少年期から抱え込んできた鬱屈とした感情を指しているはずだ。

 なぜ「真夜中」に「後悔」が「膨らんだ」のかというと、ウスバカゲロウへと羽化する夜間を迎えて、「僕」が苦い思いとともに過去を省みているからだろう。

 同じく1番のサビにある「寂しさに包まっている」という部分にも重要な意味がある。

 アリジゴクは蛹になり、まゆに「包まっている」ような状態で、羽化の瞬間を待っている。でも、「僕」は大人になることに対して、この時点で大いなる希望は持っていない。これまでは、俗世と距離を置いて生きることができていた。でも、その時間は、まもなく終わる。モラトリアムに対する惜別の念が募る。

 だから「寂しさ」に「包まっている」のだ。

単なる引きこもりではなくて

 「僕」が子どもと大人の端境期を生きていることは分かった。引っ込み思案の人間であることもうかがえる。

 でも、「僕」は完全なる引きこもりではない。自身の生き方を懐疑的にとらえている面があることが、歌詞に示されている。

 「遥か遠くで光る 煌めきに見惚れ 追っかけて」

 そう、「僕」は「煌めき」に「見惚れ」ているのだ。ここではない明るい世界を夢見て、一歩を踏み出したいという思いを持っている。でも、それができない。できないままだった。そして、好むと好まざるとにかかわらず、そのまま大人になる時を迎えてしまった。

大人になったものの…

 続く1番のサビにこうある。

 「やがて来る朝焼けにまた叩き起こされて 枝につかまるウスバカゲロウ」

 日の出は、意欲に満ちた人にとっては、1日の始まりへ向けて、やる気スイッチが入る時間になる。

 一方で、日の光を避けてきた「僕」は、大人の仲間入りを果たしても、どうしても明るい世界に戸惑いを隠せない。だから希望の象徴とも言うべき「朝焼け」に「叩き起こされて」しまう。

 1番のサビは、このように締めくくられる。

 「透明の羽たたんでいる」

 「僕」は、いまだに飛び立てていない。自らの内面と自身を取り巻く環境の間には、深い溝が横たわっている。尻込みしたままの「僕」の姿がここにある。

「君」とは誰?

 さて、「僕」がどんな人間であるかは把握できた。

 次なる問題は、繰り返し登場する「君」が誰なのかということだ。

 まずは、「君」を含む歌詞を列挙してみよう。

 「君といた夏の記憶が また少し萎んだ」(1番のAメロ)
 「いくつもの後悔を 君の残像に重ね悶えながら」(1番のサビ)
 「君から見た景色が どんなものか想像もせずに」(2番のBメロ)
 「君の残像に重ね合わせながら 愛しさを味わってる」(ラストのサビ前)

 ここから分かるのは、「君」が「僕」のそばに、今はいないということだ。

 もし「君」と「僕」がずっと一緒にいるのだとしたら、「君の残像」という表現にはなり得ない。目の前から去ってしまっているからこそ「残像」になる。

普通なら恋人だけど

 となると、「君」は誰なのだろう。

 2番のサビでは、このように歌われる。

 「薔薇色だった日々はあまりにも簡単に ほんの小さなボタンの掛け違いから 粉々に壊れた 耳をふさぎたいような言葉を投げ合って」

 このパートを見ると、「僕」と「君」は恋人の関係にあるのが、一番しっくりくる気がする。

誰だっていいではないか

 でも、本当にそうなのだろうか。

 この楽曲のテーマは、子どもが大人、そして社会人になっていく際に伴う迷いや葛藤だ。

 では、その主題を扱うにあたって、「僕」のそばにいるべき人間は、恋人でなければならないのだろうか。

 「君」の部分に、親や友人を当てはめて考えてみるとどうだろう。

 なんと、何の違和感もないではないか。

 親や友人との関係だって、「ボタンの掛け違い」で傷ついてしまうことはあるし、そういった人たちとの間で「言葉を投げ合」うことだってある。

素直に受け止められなくて

 それに、なぜ「言葉を投げ合」ったのかを考えてみるといい。必ずしも単純なけんかとは限らないではないか。

 続く歌詞にこうある。

 「「でも自分は間違っていない」と思わなきゃ 心を守る手立てがなくて」

 きっと「僕」は「君」から何かしらのアドバイスなり忠告を受けたのだ。おそらく生き方に関することだろう。その内容は的を射ていた。そのことを「僕」は分かっている。でも、素直に受け止められなかった。だから、「心を守る」ために、自身を正当化しなければならなかった。

 そのように読めば、「君」が恋人であっても、親であっても、親しき友人であっても、問題なく収まることが分かるだろう。

 「君」は誰だっていい。歌詞の中に答えは示されていないのだ。桜井さんはあえて、限定しないように書いたのだろう。リスナーがイメージを膨らませて決めればいいのだと。

音のないメロディが響く場所

 そんな迷える「僕」は「君」と離れて、内面的にも大人へと脱皮を図ろうとしている。

 最後のサビを前に、歌詞にこうある。

 「夕暮れに投げ捨てた音のないメロディ」

 ここでいう「メロディ」は、子ども時代の日々を表しているはずだ。

 「僕」は自分の殻に閉じこもることは良くないと感じながらも、そこから抜け出そうとしないまま、安穏とした日々を過ごしてきた。だからこそ、その時間は、音楽でたとえるなら、不協和音といったものではなかった。心地よい「メロディ」だった。でも、それは、あくまで「僕」の内面世界にしか響かない「メロディ」だ。

 ゆえに、そこには音がないのだ。

「夕暮れ」でなければならない訳

 でも、「僕」はなぜ「音のないメロディ」を「夕暮れ」に「投げ捨てた」のだろうか。

 繰り返しになるが、アリジゴクが蛹の状態を経て、ウスバカゲロウに羽化するのは夜間だ。

 では、羽化の直前はいつになるだろう。言うまでもなく「夕暮れ」時だ。

 「僕」は夕日が沈んでいく中、ついに、これまでの環境に別れを告げる決意を固めたのだ。

 進んで大人になりたいわけではない。それでも「僕」なりの覚悟はできている。
 
 だから、自らの意思をもって「投げ捨てた」のだ。

羽ばたきの時が訪れた

 ラストパートの歌詞を見てみよう。

 「ヒカリに満ちた場所に辿り着けないとしても 今日をゆらゆらとよろけながら 懸命に飛び立ちたい」

 先ほども触れたが、ウスバカゲロウは飛ぶのが得意ではない。例外なく「ゆらゆら」と「よろけ」ている。

 まさに大人の世界に足を踏み入れたばかりの「僕」そのままだ。ウスバカゲロウが浮遊するように不安定で、「子供じみた価値観を引き摺ったまんま暮らして」いる現実さえある。

 それでも、望みは捨てていない。

 「懸命に飛び立ちたい」のだ。

 そして、曲は終幕を迎える。

 「軟な命を揺らしながら 空を泳ぐウスバカゲロウ 僕は今それのよう」

 そう、「僕」は「軟な命」かもしれない。精神面は成長しきらないまま。青二才であることに変わりはないかもしれない。

 それでも、意を決して飛び立った。

 まさに今、自分の力で、空を泳いでいるのだ。

 「透明の羽開いて」

出会いと別れの春に

 「ウスバカゲロウ」を収めたアルバム「産声」のリリースは3月25日だった。出会いと別れの春である。

 「ウスバカゲロウ」の歌詞が、アルバムのリリース日を念頭に書かれたのかは分からない。ただ、旅立ちの季節にふさわしい温かなメッセージソングになったことだけは間違いない。

 じっと身を潜めるだけで、後ろにしか進むことができないアリジゴク。

 成虫になったのに、うまく飛ぶことができないウスバカゲロウ。

 その生涯は、人間的価値観で見ると、どこか不器用なようにも思えてしまう。

 そして、われわれの社会に目を向ければ、そのような人は少なからずいるはずだ。子どものころから今に至るまで、何をやってもうまくいかない。社会に居場所が見当たらない。どうすればいいのだろう。そんな風に苦しんでいる人たちがきっといる。

 春の訪れとともに新たな門出を迎えたのは、若者だけではないだろう。

 いくつになっても、人生の岐路は訪れる。

 そこには期待だけではなく、不安や怖さが伴うことだってある。

 でも、大丈夫。きっと、大丈夫。

 この曲は、そうやって、そっと背中を押してくれる。

つまりは、いつもの

 こうして読み解いてみると、どうしたって扱うのに難儀しそうなウスバカゲロウという素材を、無二の芸術作品に昇華させることに見事なまでに成功していることが分かる。

 しかも、この歌詞をこんなに流麗なメロディーに乗せてしまうなんて、尋常ではないだろう。

 行き着く結論は、予想通りだった。

 やっぱりミスチルはすげえな。

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