歴史に出てくる僧侶が歌に
またまた怪作ならぬ快作が生まれた。
Mr.Childrenが2026年3月25日にリリースしたアルバム「産声」の8曲目に収録されている「空也上人」。歴史上の実在した人物がタイトル名に冠されることになったのは、ミスチルの作品として初めてだろう。
え、歴史の教科書に出てきそうな人? ということは、かなり尖った歌なのでは?
そんな先入観を抱いてしまうわけだが、聴いてみると、これが全く違う。落ち込んだ気分をこんなに引き上げてくれる曲は、そうそうない。3分22秒の演奏時間を通して、ただただ感心してしまうわけだ。
さて、空也上人とは誰で、どんな人物だったのだろう。なぜ空也上人がテーマになったのだろう。考察してみたい。

庶民に広めた「南無阿弥陀仏」
空也が生まれたのは、平安時代の903年とされる。自分の素性を明かさなかったと言われ、出生地は明らかになっていない。醍醐天皇の皇子だったという説もある。とにかく記録が少なく、確かなことは分かっていない。
空也の最大の功績は、「南無阿弥陀仏」を一般庶民の間に広めたことにある。
エリート僧のものではなく
仏教の歴史を少しだけ振り返ってみよう。ちょっと回りくどいと感じられるかもしれないが、大事なことなのでご容赦願いたい。
仏教が日本に伝わったのは、飛鳥時代の6世紀とされる。天然痘が流行した奈良時代には、聖武天皇が国家安寧を願って各地に国分寺を建立し、その教えは一気に広まりを見せた。
しかしながら、当時の仏教は、経典を学んだエリート僧のためのもので、庶民が身近に感じるものではなかった。
それを変えたのが、聖武天皇の治世から200年ほど後に生まれた空也だった。
民衆にとことん寄り添い、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、誰でも極楽浄土に行けると説いて回った。
まさに「民衆が信ずる仏教」の土台を作った最大の功労者と言っていいだろう。
仏像好きが高じて?
その空也がなぜ楽曲になったのか、という話に移ろう。
空也は僧侶としてはもとより、「空也上人立像」という木像としても有名だ。運慶の四男である康勝の作で、国の重要文化財に指定されており、京都の六波羅蜜寺という真言宗の寺院が所蔵している。JR東海の「そうだ、京都、行こう」という2023年のキャンペーンで取り上げられたので、テレビCMなどで見たことがあるという人も多くいるだろう。
なぜ彫像の話をしたかというと、桜井さんが自身の仏像愛をテレビ番組で打ち明けていたからだ。TBS系の「日曜日の初耳学」で林修先生のインタビューを受けた際、空也上人立像について語っていた。
なるほどね、そういうことか。仏像を見るのが好きだから、こうやって空也が歌になっていったんだ。そっか、そっか。
以上、終わり。もうこれ以上、語る必要はないか。
いや、そうかもしれないが、そんなに簡単に結論に行き着いてしまったら、ここに書く意味がなくなってしまう。
少し想像力を膨らませて、歌詞の中身について考えてみることにしよう。

うまくいかなかったとしても
まず、歌詞全体を貫いているメッセージ性に目を向けてみよう。これは分かりやすい。
失敗しようが、うかくいかないことがあろうが、何事にもチャレンジしていこうぜ。ざっくりまとめてみると、こんなところだろうか。
その主題が「思い通り 願い通り いって何が楽しい」というサビのフレーズにつながっていく。
でも、その境地に至るまでのプロセスこそが、この楽曲の面白いところだと思う。
3回出てくる「何を今更」
注目したいのが、「何を今更」というフレーズだ。全体で3回登場している。
1回目は、都合のいい終わり方をした映画に対して、「何を今更 初めから全部嘘だろ」。
2回目は、膝を怪我してしまったプロサッカー選手(もしくはその予備軍)に対して、「何を今更 人生は言わばギャンブルだろ」。
3回目は、努力したにもかかわらず正当な評価を得られない状況に対して、「何を今更 この世はすべて不平等かも」。
肌感覚で分かっているけど
確かに、すべてその通りかもしれない
映画は基本的に「嘘」で成り立っているし、もっと言うと、世の中全体を見渡しても「嘘」はあふれかえっている。人生には「ギャンブル」的な要素が付いて回り、強烈なしっぺ返しを食らうことだってある。どれだけ頑張っても報われない不条理がそこら中にあることは、あまりにも自明だ。
ここで歌われていることを、多くの人は誰に教わるでもなく「そういうものだよね」と肌感覚で理解している。社会で生きるにあたっての避けられないコストというか、半ば諦めの境地のように受け入れてしまっている面があるかもしれない。
それでも時にわれわれは、それに悩まされ、苦しめられる。

最初から分かっているぜ
では、どうすればいい? 簡単だ。はじめから「そういうものだ」と分かっているのだったら、「何を今更」と口にしてみればいいのだ。
社会が嘘を抱き込みながら回っているなんて、「何を今更」、最初から分かっているぜ。
自分の失敗や挫折を喜んでいるやつがいるなんて、「何を今更」、最初から分かっているぜ。
自分の力ではどうにも変えようがないことがあるなんて、「何を今更」、最初から分かっているぜ。
何を今更、何を今更… 何もかも分かっているんだぜ!
あら、不思議。なんだか、心が軽くならないだろうか。
何事も思うようにはいかないのが世の常なのだ。最初からそのように割り切ってしまえば、恐れることなんてない。「何を今更」と言ってしまえば、身の回りの憂いへの対症療法になるのではないか。そう歌詞は訴えているのだ。
うーむ、これはすごい。腑に落ちる。ある意味、「何を今更」の4文字は、発明品なのではないだろうか。

口から飛び出る阿弥陀如来
そして、ここで話は再び、空也上人立像に戻る。
この彫像をもし見たことがないという人がいたら、ぜひ画像検索してほしい。一度見たら、きっと忘れられなくなる。
空也上人の口から、細長い棒が伸びている。そして、その棒の上に6体の小さな像が並んでいる。
なんだこれは、と思うこと間違いなし。実に奇抜でユニークだ。こんなシュールな像は、歴史的に仏教と関わり合いがある東アジアの国々にまで目を向けても、存在しないのではないか。
6体の像が表すものは?
ポイントは、なぜ口から6体の像が飛び出ているのかということだろう。
これは、はっきりしている。
「南無阿弥陀仏」が6文字だからだ。
空也が南無阿弥陀仏を庶民に説いて回るさまを、6体の阿弥陀如来像が表している。
空也が口にした言葉が、そのまま彫像を形作っているのだ。
「スガタカタチ」にするために
空也が登場する2番のサビを見てみる。
「まるで空也上人 言った言葉スガタカタチにして 少しずつ願いを叶えよう」
ここだ。空也のように「言った言葉スガタカタチ」にするとは、どういうことだろうか。
それは、自らの「願い」を口にして、それを「叶え」てみせることだ。もし実現できたとしたら、それは空也上人立像の口から飛び出た6体の像のごとく、「スガタカタチ」を伴ったと言えるのではないか。歌詞はそのように述べている。
声に出すだけで勝利確定
つまりは、こういうことだ。
何か面白くないことや都合が悪いことに遭遇してしまったら、「何を今更」と叫ぶことによって、やり過ごしてしまえばいい。もし夢や希望があるなら、公にしてしまって、そこへ向かって突き進んでいけばいい。正の感情だろうが負の感情だろうが、どちらであっても構わない。声に出してしまえば、勝つのは自分。負けはないのだ。
なんとまあ、魔法のような話ではないか。これこそが、この楽曲が唱える最も重要な奥義とでも言うべきものではないだろうか。

ジョン・レノンのどの曲?
歌詞の中に出てくる「ジョン・レノン」と「幸福論」についても考えてみよう。
「ジョン・レノンでも聴こうか」というフレーズは2回登場する。そうやって歌われると、何の曲を想定してここに持ち出してきたのだろうと、どうしても想像を膨らませてしまう。
正解はもちろん、こちらとしては分からない。ただ、ある程度の確信を持って予想することはできる。
何の曲かというと、それは「Beautiful Boy」になる。
ハプニングが大きくしてくれる
この曲には、ジョンが残した歌詞の中で最も有名なものの一つとされるフレーズが含まれている。
Life is what happens to you while you’re busy making other plans
直訳すると、「人生とは、あなたが他の計画を立てるのに忙しい時に起きてしまうことである」となる。
ちょっと硬いので、もう少し丸めて言ってしまうと、「人生とは、あなたが思い描いたようになるわけではなく、いつだって予期しないようなものによって出来上がっているのだよ」といったところだろうか。
さすがに含蓄がある。
そして、これに類するフレーズが「空也上人」にあるではないか。
「予定外のハプニングが僕を大きくする」
「予想外のハプニングが君を大きくする」
ビンゴ。たぶんそうだろう。「人生」にまつわるジョンの歌詞と呼応している。そうとしか思えない。

アランの「幸福論」
最後のサビに1回だけ出てくる「幸福論」についてはどうだろう。
調べてみると、世には三大幸福論なるものがある。発表された年代順に並べると、以下のようになる。
カール・ヒルティ(スイス)の幸福論 1891年
アラン(フランス)の幸福論 1925年
バートランド・ラッセル(イギリス)の幸福論 1930年
この中で、「空也上人」の歌詞と親和性が高いと思われるのは、アランの幸福論になる。
幸せでいようとすれば
「悲観主義は気分によるものであり、楽観主義は意志によるものである」
これは、アランの最も有名な言葉の一つとして知られている。
アランによると、人間は放っておくと、重力によって物が下に落ちるように、そのまま気分が沈み込んでいってしまう。だからこそ、意志の力で自分を引き上げなければならないのだという。
そして、幸福とは、何か良いことがあって感じるものではない。どんな時でも幸せでいようとすれば、良いことが起こる。だから、自分自身を常に「上機嫌」に保とうと努力しなければならない。そのように説いている。
なるほど、「空也上人」の歌詞とぴったり符合するではないか。「何を今更」と口にするなどして心の平穏を保とうとすれば、それが幸せにつながっていくと歌っているのだから。
最後のサビにはこのようなフレーズもあった。
「的外れのバッシングも君を大きくする」
ほら、そうだ。頭にくるようなことがあったとしても、幸せでいようとすれば、それは自分のプラスになって帰ってくる。まさに、アランの思想そのままだ。
想定外ばかりということは…
空也が民衆に「南無阿弥陀仏」を説くことで精神の平穏をもたらそうとしたように、ミスチルの「空也上人」もリスナーの心を整えてくれる。そのことが、ここまでの分析を通して伝わっただろうか。
それにしても、空也上人立像からはじまって仏教の歴史、ジョン・レノンの歌詞、そしてアランの哲学にまで話が及ぶとは、全く予期していなかった。
そうだ、ジョンが言ってたな。人生とは予定外のものによって出来上がっているんだって。
この文章を書くにあたって、思ってもみないような学びを得られたということは、つまりは、これに集中していた時間は、自分の人生そのものだったということか。
どうりで楽しかったわけだ。






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