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イスラム・ホジャのミナレット 為政者の悲劇を招いた56メートルの高塔 タシュハウリ宮殿 ハンのプライベート空間に珍客登場 ウズベキスタン個人旅行 6泊8日でサマルカンド、ブハラ、ヒヴァ、タシケントの名所を制覇㉘

 6泊8日で、サマルカンド、ブハラ、ヒヴァ、タシケントを巡る個人旅行の6日目です。この日は、イチャン・カラを歩き回ります。まずはイスラム・ホジャのミナレットとタシュハウリ宮殿です。2025年10月の旅です。

朝に歩く「ドラクエの街」

 6日目 7:20 少し早起きして、朝食前にイチャン・カラを軽く散歩します。

 イチャン・カラは、よく「ドラクエの街みたい」と表現されます。実際に来てみて、本当にそう思います。タイムスリップして過去に来たようであり、異界にワープして来たようであり、現実にこういう街が存在して、人が住んでいて、いま自分がそこにいるのだと思うと、言いようのない高揚感を覚えます。


 カルタ・ミノルの青色って、不思議だなと思います。昼間の明るい青空の下で見ると、同じような輝かしい青色が映えて、こうして日が昇りきっていない朝方に見ると、似たような落ち着いた青色でたたずんでいます。どの青空にも、塔の方から歩み寄って、なじもうとしている。そんな錯覚にとらわれます。


 イスラム・ホジャのミナレットです。朝食後に登ります。


 人通りはまばらです。道端にはハンガーラックや棚のようなものが置かれています。ここに服をつるしたり、土産物を並べたり、という商売しているのでしょう。毎日並べて、持ち帰ってを繰り返すのは大変そうです。


 この女性たちは出勤途中でしょうか。世界遺産の街にある朝の風景です。この3人組とは違いますが、制服を着て、イチャン・カラの目の前にある学校へ通学する子どもたちの姿も見ました。観光客にとっての圧倒的な非日常と、住民たちの日常が、城内には確かに共存しています。


 イチャン・カラのマンホールです。2021年に更新したのでしょうか。石畳との間で違和感が生じないようなデザイン、色合いになっています。

 散歩はここまで。ホテルに戻って朝食を取り、また街歩きに出ます。


大宰相が築いたヒヴァ・ハン国末期の大建築

 9:30 まずはイスラム・ホジャのミナレットからです。高さ56m。イスラム・ホジャ・マドラサに付属するミナレットで、イチャン・カラで最も高い建造物です。ここは塔の上にある展望スペースに登ることができます。ただ、人がすれ違うのも大変なくらい階段は狭いです。よって、登るのであれば、人が少ない午前中の早い時間の方がよいと思います。その意味で最初に来ました。

 イスラム・ホジャのミナレットが完成したのは、1910年です。ヒヴァ・ハン国がソ連の介入によって消滅するのが1920年なので、王国の最末期に当たります。建設を進めたのは、大宰相だったイスラム・ホジャです。大宰相は日本語訳で、現地の言い方なら「クシュベギ」(Kushbegi)になります。

 ヒヴァ・ハン国では1700年代半ばから1800年代初頭くらいまで、「イナク」という明文化されていない称号の有力者がハンの側近として力を持ちましたが、その後は王国で制度化された大宰相が政治を動かしていたといいます。日本に置き換えて例えるなら、イナクの存在は鎌倉時代の執権、大宰相は戦前の内閣総理大臣に近いようです。

 イスラム・ホジャは開明的な人物だったといいます。ハンを君主に据えた体制は維持するものの、税制や教育などでさまざまな改革を断行していき、近代国家としての体裁を整えようとしました。

保守勢力からの反発を招き

 といっても、地域の風習やイスラムの慣習を軽んじたわけではなかったようです。伝統と革新の間に橋を架けるシンボルをつくれないかという考えもあって、発案したのがイスラム・ホジャのミナレットでした。

 確かに、ミナレットの姿や形は、伝統の域からはみ出るものではなく、でもその高さはヒヴァ・ハン国において突出したものになります。天へと高く伸びる塔は、新たな時代の到来を告げる視覚的な仕掛けになったのです。

 それでも、イスラム・ホジャの政治手法は急進的とみられ、保守的な宗教勢力などから反発を招きます。そして、ミナレット完成から3年後の1913年、暗殺されてしまいました。誰が、何のために実行したのか、明らかになっていないようです。

 この事件は現在、ヒヴァ・ハン国の終末を象徴する出来事としてとらえられています。


高さ45mの展望スペースへ

 場所はこちら。イチャン・カラの中央やや東寄り、南方側に位置します。

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