6泊8日で、サマルカンド、ブハラ、ヒヴァ、タシケントを巡る個人旅行の5日目です。ヒヴァに到着して軽い昼食を取った後、カルタ・ミノルとイチャン・カラの城壁を見ながら歩き、ヌルラボイ宮殿を訪ねます。2025年10月の旅です。
戦火がもたらした美しき未完
5日目 15:50 テラッサ カフェ レストランからヌルラボイ宮殿に向かう道すがら、カルタ・ミノルのそばを通ります。秋の澄んだ空とうろこ雲に、青いタイルが映えます。

右手のピシュターク(建物正面の門構え)は、ムハンマド・アミン・ハン・マドラサです。ヒヴァ・ハン国のハン(中央アジアなどにおける君主の称号)だったムハンマド・アミン・ハン(在位1845~1855年)が建築を命じて完成したマドラサです。カルタ・ミノルは、このマドラサに付属するミナレットです。こちらのマドラサは現在、内部が改装され、オリエントスター・ヒヴァというホテルとして利用されています。
カルタ・ミノルはイチャン・カラの南北で言うと中央に、東西で言うと西寄りに位置します。
カルタ・ミノルの高さは26mです(28mという情報もあり)。完成していたら、当時の中央アジアで最大の70mくらいの建築物になったのではないかとみられています。ブハラのランドマークとも言うべきカラーン・ミナレットが46mですから、それをはるかにしのぐ威容となっていたことでしょう。
しかし、ムハンマド・アミン・ハンがロシアの南下政策に対抗する中で戦死してしまったことで、運命が変わります。後を継いだハンは、ロシアを意識して軍事に重きを置かざるを得ませんでした。結果として、莫大な費用を要する巨大ミナレットの建設は止まってしまいました。これが、短いミナレットが今日まで残っている理由とされます。

ムハンマド・アミン・ハンの戦死から18年後の1873年、ヒヴァ・ハン国はロシアの圧に耐え切れずに保護国化されてしまいます。形式的にハンの制度は存続しましたが、国としての主権は事実上失ってしまいました。そして1920年、ソビエト赤軍の介入によってハンは退位を迫られ、ホラズム人民ソビエト共和国が成立します。ここに400年に及ぶヒヴァ・ハン国の歴史は幕を閉じました。
カルタ・ミノルは、未完ゆえに、より強く印象に残る建築物があるという事実を教えてくれます。もしムハンマド・アミン・ハンがもう少し生きていたら、今と異なる天を突くようなミナレットが残っていたかもしれません。
カルタ・ミノルの個性的な姿は、為政者や建築家が独創性を発揮してできたものではないのです。それは拡張を繰り返してきたロシアという国の影がもたらしたものです。そのように眺めてみると、印象が少し変わってくる気がします。
西門の前には、イチャン・カラ内の歴史的建造物をまとめたマップがあります。タイルでできているのが、ウズベキスタンらしくていいです。このようにツアーガイドが説明している姿をよく見ました。

400年間も変わっていない城壁の原型
西門(オタ・ダルヴァサ門)から城壁の外に出ます。ヌルラボイ宮殿は、城壁を右手に見ながら、北へ向けて進みます。

この城壁はやはり、イチャン・カラで最もインパクトがある景観の一つでしょう。高さは8~10m、厚さは5~6m、全周は2.2㎞で、主な材料は日干しれんがです。

ヒヴァの起源は紀元前にさかのぼるとされ、その時代から城壁らしきものはあったようです。その後、壊されて直してを繰り返し、現在残っている城壁は、1600年代にヒヴァ・ハン国が築いたものとされています。
ヒヴァ・ハン国はロシアによって保護国化されてしまいますが、戦火による城壁の損傷はほぼなかったとされます。その後、ソビエト赤軍の介入によってハンが退位させられた際も、深刻なダメージはなかったと言います。つまり、城壁の原型は、400年くらい変わっていないことになります。

社会主義の勝利を証明するために
ソ連はヒヴァを体制下に置いた後も、イチャン・カラを破壊せず、保存して管理する道を選びました。希少価値の高さを認めたからではありません。そこには社会主義体制の足元を固めるための、冷徹な計算があったといいます。
ヒヴァ・ハン国時代を振り返ってみましょう。国の成立以来、長きにわたって少数の王族が、多くの民を支配してきました。圧政だったかどうかはさておいて、身分の違いがあったのは間違いのないところです。そして、ヒヴァは単なる交易都市ではなく、奴隷貿易の拠点として栄えた一面も併せ持っていました。
人民の平等を掲げるソ連にとって、これらは都合がいい史実だったはずです。ソ連の指導者たちは、ヒヴァ・ハン国時代を「克服すべき過去」として喧伝しました。単に貶めたわけではありません。説得力を持たせるために利用したのが、イチャン・カラだったといいます。
ソ連は、イチャン・カラの「読み替え」を図りました。つまり、ソ連にとって古い街並みは、伝統や風習を伝える遺構ではなく、今日の発展から取り残されたことを示す証拠物件だったのです。封建王政が悪だからこそ、このような時代遅れの建築物しか作れず、だからこそ社会主義を信奉しなければならない、という理屈です。
まさに、百聞は一見に如かず。対比材料として、イチャン・カラは好都合だったというわけです。
ソ連の存在によって世界遺産になるという皮肉
ソ連は1970~80年代に、本格的に城壁の修復に乗り出します。日干しれんがは風雨で劣化してしまうので、手入れがどうしても必要になったのでした。ソ連はかつての製法にのっとってれんがを作り、積み上げました。そのため、景観の連続性は、修復の前後でほぼ変わらず保たれたといいます。

修復の技術や手法は、高く評価されたといいます。その結果、ヒヴァは1990年にユネスコ世界文化遺産に登録されました。ソ連が崩壊する前、つまりウズベキスタンが建国される前の話です。
ヒヴァ・ハン国を滅亡に追い込んだのはソ連です。ただ、ソ連の存在がなければ、今日のような良好な状態で、城壁やイチャン・カラの街並みは残っていなかったかもしれないとも言われています。歴史というのは、実に皮肉なものです。
王朝末期の宮殿に混じる二つの文化
イチャン・カラの城壁の西側は、このように芝生が敷かれた公園になっています。イチャン・カラが褐色の世界なので、緑がまぶしく感じます。

16:00 ヌルラボイ宮殿に到着。

イチャン・カラの西門から500m強のところにあります。
入り口です。入場料は1人120,000スムでした。結構高いです。

内部です。ヌルラボイ宮殿は、当時のハンが豪商ヌルラボイに資金拠出を頼んで建てたことから、この名が付いたとされます。建てられたのは、ロシアの保護国下にあった1912年です。ヒヴァ・ハン国が滅亡するのが1920年なので、ほぼ王朝末期の時代になります。ハンの威光は既に衰えてしまっており、豪商の力を借りないと、宮殿を建てることはできなかったと言われています。

建造からまだ100年程度なので、イチャン・カラ内の建物と比べると、やはり新しい感じがします。

伝統的なイスラム建築で見られる「アイヴァン」と呼ばれる空間が設けられています。装飾が施された柱によって、屋根が支えらえています。

しかし、宮殿の内部はイスラム一色ではなく、ロシアの影響も感じられます。実際にロシアの職人も建築に携わっているとのことです。

こちらの椅子は、ハンが座っていたのでしょうか。ここだけ見ると、イスラム色は、あまり感じられません。

当時の衣装や美術品などの展示物も並びます。

この地を治めた歴代ハンの肖像画が掛けられています。

宮殿の内庭です。四方を囲むように内庭を設けるというのは、マドラサでも見られるように、イスラム建築の特徴かと思います。

ヌルラボイ宮殿を訪れてみると、イチャン・カラの建物群と雰囲気が全く異なることがよくわかります。イスラムとロシアの折衷が見られ、ヒヴァ・ハン国の終わりが近づいていたことが、随所に感じられます。それが可視化されているという意味で、貴重な観光資源になっていると思います。所要時間は30分~1時間といったところでしょう。
イチャン・カラのスーパーと言えばここ?
ヌルラボイ宮殿の向かいには、ガストロノームというスーパーがあります。イチャン・カラの内部、および外も含めた徒歩圏で、指折りに充実したスーパーなのではないかと思います。

場所はこちらです。
店内です。それなりの広さがあり、飲食関係は一通りそろっている印象でした。

ミネラルウォーターです。

お菓子類です。チョコレートなどは、ばらまき土産として持ち帰れそうです。

イチャン・カラの城壁とヌルラボイ宮殿の見学、および買い物はここまでです。イチャン・カラ内に戻って、アラクリ・ハン・キャラバンサライで土産物探しをするなどします。




コメント